コロナから見えてくる  2020/08/15


私は体に異変や不調が現れたとき、医療にも疑問があるので、まずその不調には生活の中の何かの原因があるのではないかと考えることにしっている。それは食事だったり睡眠や運動によって、血液の流れが悪くなることによる代謝の問題に行き着く。そのように考えて、座り続ける生活を見直すことによって、発見することも多い。

体と同じように心の問題、つまり社会の様々な問題や動きを見るときも同じように考えて、コロナの世界的の課題についても、それはマイナス面ばかりでなく、世界中の人々の健康・医療・経済から生命にもかかわる大問題についても、いままで気がつかなかった人類や地球レベルの発見や生活の見直しの機会となるのではないかとも考えられる。

いまの社会の、世界の、教育の、政治の、医療のありかた、そして、オリンピックの陰に見えるゆがんだ姿と対極に見えてくる貧困の問題・・そして中国の強権的暴力、イスラエルパレスチナに見られる宗教のゆがみ・・が見えてくる。


〔(多事奏論)コロナ禍の目覚め 安倍劇場と「共演」してない? 朝日 高橋純子 2020年7月22日
 今年、スケジュール帳に添える筆記具を「こすると消える」ペンに変えた。特段の意図はなかったのだが、3月以降、とても重宝した。4月の仙台、5月の広島、6月の長野に福岡、8月の北九州……すべて消しきってから、後悔した。記録として残しておけばよかった。何が予定されていて、いつどうキャンセルになったのか、あとで見返した時になんらかの記憶を呼び起こすフックにはなり得たかもしれない。

 良くも悪くも、人は忘れる。東日本大震災のあと数年間をかけて、私はつくづく実感したのだった。あのとき、多くの人たちが、「変わらなければ」と確かに思った。脱原発の集会やデモには万単位の人が集まった。自分たちが享受してきた便利な生活を見直し、文明を問い直そうという議論がさまざまに、活発になされた。

 だが、簡単に答えが出ない問題を、踏みとどまって考え続けるには知的にも精神的にも体力がいる。記憶が薄れればどうしたって現状維持に傾くし、まじめに考え続けてやきもきしている自分はなんだか損しているようにも感じられてくる。

 ああ、疲れた。

     *

 そんな「厭戦(えんせん)気分」ならぬ「厭考気分」にうまく乗じたのが、安倍政権だったと私は思っている。「この道しかない」と力強く言い切り、7年半の間、選挙であれ外交であれ、一種の見せ物として仕掛けていく「イベント屋」としての才をいかんなく発揮、難しいことは考えなくていいんですよ、面倒なことは忘れて、いまここを楽しみましょうよ、その方が人生お得ですよ――そんなメッセージで人々のもやもや、後ろめたさをこすって消してくれた。

 その集大成が、あさって7月24日に開会式が予定されていた「復興五輪」、東京オリンピックパラリンピックとなるはずだった、はずだ。

 もし予定通りだったら、いまごろどんな感じだっただろう。連呼される「がんばれニッポン」。あおりあおられる一体感。そんな中でたとえば、森友学園をめぐり公文書改ざんを命じられたと命を絶った赤木俊夫さん、妻・雅子さんの訴えは、どれくらいの音量で人々の耳に届いただろうか。

 「アンダーコントロール

 始まりは2013年9月、IOC総会における首相の英語でのプレゼンだった。「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています」(首相官邸ホームページの日本語訳)。自国の首相が堂々とうそをつく、うそが過言なら誇大広告と言い直してもいいが、いずれにしても、カタカナ表記にされた「フクシマ」、そして世界に対する向き合い方はいかにも不誠実で、恥ずべきものだった。だが、日本社会の受け止めは意外なほどにさばけていた。「結果、招致成功したんだからいいじゃない」みたいな。

 「うそも方便」が裏口ではなく表玄関をくぐり、それを拍手で迎えてしまったら、あなたも私も、首相プロデュースの舞台「不誠実」の「共演者」、控えめに言っても「観客」である。まんまとしてやられた。悔やんでも時すでに遅しで以後、舞台は題材を変えながらロングランを続ける。都合の悪い情報は隠し、あったことはなかったことにして、はい、ジョウキョウハトウギョサレテイマス。果たして赤木さんを追い詰めたのは、官僚機構の論理だけだろうか?

     *

 どうしたって五輪は強力な「リセットボタン」として機能する。ならば延期に伴うこの1年の「猶予」は、小さな声に耳をすませ、忘れてはいけないことを握りしめる、そんな時間にしたい。だって私は心底驚いたのだ。コロナ禍でイベントをうてなくなり、派手な衣装も照明も排した「裸」の政権の姿に。いつの間にこんなにやせ衰えていたのかと。首相は自分の言葉で人々に語りかけることすらできないのかと。

 (編集委員

 

真山仁のPerspectives:視線)15:延期の五輪 朝日 2020年7月22日

 ■「絶対開催」言われても、無関心の波

 人々の会話から、五輪の話題が消えた気がする。あえて話を向けると、「もうやらないでしょう」という反応ばかりが返ってくる。

 先行きが見えないコロナ禍や、政局、洪水災害等々……。日本を取り巻く環境が日々、過酷な様相を呈する中では、致し方ないかも知れない。


 もはや静かに「五輪無関心」の波紋が広がっているというのが、実感だ。

 それでも、東京五輪は開催する、と強く望んでいるのは、誰だろう。

 開催都市代表の小池百合子知事は再選されてから、五輪に向けてギアを上げた。自らの“熱い”演説で五輪招致を決めたと自負し、1年延期を実現させた安倍晋三首相も鼻息は荒い。

 さらに、五輪開催こそが存在意義である国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が予定通りの規模での東京開催を望んでいるのは、日々の発言からもうかがえる。東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長も、同様のようだ。

 では、参加する選手はどう考えているのだろうか。組織委の理事も務める日本サッカー協会田嶋幸三会長は、「五輪は、ぜひ開催して欲しい。選手は大会を目指して切磋琢磨(せっさたくま)してきたわけだし、その思いに報いたい」

 サッカーの場合、世界が熱狂するFIFAワールドカップもある。たとえ五輪が中止になっても世界で戦う機会がゼロになるわけではない。

 「ワールドカップと五輪は別。例えば、前回のリオ五輪の時、普段は五輪を重視していなかったブラジルチームが金メダル奪取に燃えた。そして見事それを手にしたことで、リオ五輪は成功だったと考えているブラジル人が多い」

 日本でも、1968年メキシコ五輪釜本邦茂を擁した日本チームは、銅メダルを獲得。それが、日本でのサッカー振興にもつながった。

 また、経済効果への期待も根強い。

 2017年に東京都が試算した経済効果は32兆円超(ただし、大会招致が決まった13年から大会10年後の30年までの18年間の総額)。

 一方で、今年3月に関西大学の宮本勝浩名誉教授が「延期の場合、約6408億円、中止は約4兆5151億円の経済的損失が推測される」という試算を発表した。

 だから、五輪は開催しなければならないのだ!となるのだろうか。

 それに、延期する場合は、さらに予算が必要になる。報道などでは最低でも3千億円から5千億円が必要と言われているが、試算はあくまでも試算だ。大抵は様々なマイナス要因が加わり、損失額や負担額は大きくなる。コロナ対策だけでも国家予算規模の額を拠出し、この先いくら必要なのかも不明な時に五輪のために、莫大(ばくだい)な負担をするというのか。

     *

 五輪に関していえば私自身は、当事者ではないし、無責任な立場である。その視点で五輪開催について考えてみたい。まず、コロナ禍が終息し、従来通り、人もモノも自由に移動できる世界になってはじめて、五輪開催が可能になるのではないか。

 では、それはいつか。

 残念ながら、神のみぞ知るだ。

 日本で感染者が増えており、先行きはさらに混沌(こんとん)としてきた。おそらく、ワクチンなり治療薬なりが完成し、多くの人に行き渡らないかぎり、安全宣言はなされないだろう。

 新聞報道などによると、東京五輪の準備を監督するIOCのジョン・コーツ調整委員長は、開催可否を判断するのに10月が重要なタイミングになると発言した。ところが、それで可否が決まるわけではないらしい。

 組織委の森会長は自民党内の勉強会で「判断は来年4月になってから」との見方を示している。とにかく開催したい人はいつまでも判断を遅らせるに違いないということが、推測できる。

 また、「簡素化して開催」という声が上がっている。簡素化は定義されていないが、いくつか考えられる。

 一つは、無観客での開催だ。

 出場選手だけが隔離と健康チェックを徹底した上で、競技してもらおうという考えだ。この場合、チケット代は払い戻される。その額は、約900億円に上る。

 それでも、開催することは「アスリート・ファースト」としては、「やらないより、まし」なのかも知れない。

 ■バブル教訓、撤退するなら今

 しかし、「日本で開催するのに、誰も観戦も応援もできず、テレビの前で見るなら、東京開催は無意味」という声が上がってきそうだ。

 その上、今月17日のIOC総会で、バッハ会長は観客数の制限について「一つのシナリオとして検討」と述べる一方で、「我々は熱狂的なファンに埋め尽くされた会場を目指している」と意気込んでいる。

 五輪の名物でもある開会式と閉会式は短くするという案もあるという。それについては、森会長が、テレビ放映の関係で予定通りとIOCから求められているという認識を示した。バッハ会長にしても、森会長にしても、まだ通常通りの五輪開催を行えると思っているようにしか、私には見えない。

 組織委は17日、種目の変更はないと発表したが、展開次第では種目を絞り込む可能性が出てくるかもしれない。私見だが近接して競技を行う柔道、レスリング、ボクシングなどは難しいのではないか。実現可能な種目の絞り込みをどのように定めるのかを、考えるだけで頭が痛い。

 簡素化しても、コロナ禍で多くの感染者を出した国から選手を招くのを、日本人は歓迎するだろうか。

 コロナ禍が深刻な国は、欧米ロなどスポーツ大国が並ぶ。また、コロナが最初に出現した中国はどうだろう。

 コロナ禍が軽い国の代表だけで五輪を行うという選択肢はある。その時は、日本は、史上最多の金メダルを獲得出来るかも知れない。

 逆の発想も、考慮の必要がある。

 今後、日本で新型コロナウイルスの死者が急増した場合、開催までに被害は抑え込めたとしても、参加国は国家の宝である選手を日本に送り込むだろうか。

 今春、世界のトップアスリートたちが「このような状況下で、競技に集中するのは難しい」という理由で、今夏の開催に反対した。そのような事態が、再び起きないという保証もない。そもそも世界中のアスリートが集まってこその五輪だろう。

 森会長が開会式を予定通り行うと発言した背景には、テレビの放映権にまつわる理由がある。テレビ放映権料はIOC予算の7割超を占めると言われており、その半分以上(一説では、7割以上)を米国のNBCテレビが払っている。同社は、東京五輪までの夏冬4大会の放映権を43億8千万ドル(約4690億円)で取得、さらに14年に、22年から32年までの冬季・夏季計6大会の権利を総額76億5千万ドル(約8190億円)で取得している。

 そのため、五輪の開催期間も、各種目の実施時刻も、NBCの意向が色濃く反映している。だとすると、米国が不参加になれば、五輪は、中止の可能性が高くはならないのだろうか。

     *

 考えを巡らせると、「そこまでして、五輪開催にこだわる意味があるのだろうか」という疑問に、自然に行き着く。

 それが、世間に広がる五輪への無関心の大きな要因になっている。

 五輪を断念するなら、今、決断すべきだと私は思う。

 「まだ、大丈夫」という状況で決断することを、「英断」と呼ぶ。

 大抵の場合、「まだ」というような言い回しをした時は、既に相当追い詰められているからだ。もしかすると、日本人は、撤退を判断するのが苦手なのではないだろうか。撤退の判断を誤ったと聞いて思い出すのはバブルの時代だ。バブル経済崩壊があれほどまでに甚大だったのは、政府が「損切り」の判断を先延ばししたからだ。

 いち早く公的資金を入れていれば、その時の何倍もの血税を投入して国家の破産を食い止めなくても済んだ。だが、その前に発生した住宅金融専門会社住専)の破綻(はたん)問題で、安易に公的資金を注入したと、政府が非難された苦い経験があったため、おじけづいてタイミングを逸したと、首相や蔵相を務めた宮沢喜一が後に日経新聞に証言している。そして、日本は破滅の淵に追いやられ、いまだ、日本経済は完全復活に至っていない。

 バブルと五輪開催を一緒にするなという批判はあろう。私も、同じだとは思っていない。

 しかし、あの時の教訓を生かしたいのだ。すなわち現状では、プラスの要素は皆無で、むしろ悪い環境になだれ落ちる可能性ばかりが増していくのだから、今すぐ「英断」を下す――。

 失敗から学習しないのが人間だと、最近思うようになった。それでも、深刻なコロナ禍が続いているのだからこそ、五輪については一刻も早い判断を求めたい。

 ◇この連載の出発点だった「東京五輪パラリンピック」は新型コロナウイルスの影響で延期となりました。2020年はコロナ危機が起きた年として歴史に刻まれ、私たちの暮らしや価値観も大きく変わりそうです。作家の真山仁さんが、移り変わる「いま」を多様なPerspectives(視線)から考えます。〕